私もあまり詳しくないので間違えていたら🙇ゴメンナサイという事で、以下は瑞鳳殿について簡単に解説。
伊達政宗が仙台藩藩祖となる前の時代、豊臣秀吉と織田信長のコンビ…いわゆる安土桃山時代には、当時にとても流行った(?)現代の感覚からすると、超超ド派手な「(安土)桃山文化」というものがあります。
頭角を出す前から傾奇者(頭のオカシイ人)と言われていた信長と、その信長に「猿」と名付けられても従っていた社畜の秀吉が好んだものは、当時のポルトガルやスペインから渡来した異国文化だったそうで、ワインやキセルに始まってその後も少しずつですが当時の日本文化と混じっていったと言われています。
今に残ってる大阪城や姫路城や犬山城、松本城や彦根城もその文化をつぐお城で、城郭建築が大きく変わってきたのもこの時代。
もっと詳しく知りたい人は調べてみてください。
江戸幕府の開祖の徳川家康については確かに現代の東京の基礎ともいえる部分を作った人物なのですが、織田信長や豊臣秀吉は国内だけでなく、外国にも目を向けていた野心溢れる人物だったのでした。
もしも伊達政宗がこの3人と同世代だったならば、現代の日本の首都は仙台だったかもしれません。
…って、えっと、脱線しかけたな…💦💦
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とにかく…つまり、このギンギラギンに輝く瑞鳳殿はその時代の文化様式や、その流れをくむ徳川の時代に建設された日光東照宮をなぞったもので、決して頭のおかしい人(笑)が建てた墓ではなく、織田豊臣が支配していた当時の、ど派手な上方(西)文化を愛した政宗の死後に、伊達家が当時の最先端の文化様式を北国仙台に取り入れて広めようと努力した結果の、大変美しい霊廟なのでした。
残念ながら当時のものは戦争で焼け落ちてしまい、今あるのは戦後に再建されたものです。現地では戦前の絵葉書から起こした資料が残っていて、現代のものより細工が細い事がうかがえました。
![](/img/diary_image/user_49460/detail/diary_216331_2.jpg?h=67b23f0e999315b52cef85b6357187dd)
横から…。
この建物の地下に伊達政宗の遺体が実際に安置されていたんだそう。瑞鳳殿脇にある小さな資料館には発掘当時の資料も保管されていて、伊達政宗という人物が数百年前に実在したという歴史が学べます。
このような歴史的人物(実際に発掘までされた)霊廟は(私が知らないだけかもしれませんが)地元関西にはありません。
そのせいか、本当に見ごたえがありました。
![](/img/diary_image/user_49460/detail/diary_216331_3.jpg?h=67b23f0e999315b52cef85b6357187dd)
政宗が死んだあとに殉死した家来たちの慰霊塔もすぐ脇に。
伊達政宗といえば、特に片倉小十郎(景綱)との濃すぎる主従関係が一部の大きいお姉さんにはとても有名(笑)なのですが、片倉小十郎景綱は政宗よりも10歳くらい年上でしたので、当然政宗よりも先に没した彼は、ここには埋葬されていません。
幼い頃から共に過ごした小十郎を見送った政宗の心境を考えると、いたたまれない気分になりました。
「鳥の声を聴いて眠りたい」と残した政宗の言葉、その鳥の声とは…考えてしまいましたね(笑
この慰霊塔を見た時に私は、
伊達政宗という人物は、臣下からは愛されて愛されつくされた武将だったんだなあって思いました。
14に続く
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