椰がお空に旅立って、ちょうど1年です。
仔猫の頃、何故か、台所に置いてある雑巾が好きでした。
自分より大きな雑巾を咥えて、居間まで持ってきてました。
居間に雑巾を置きたくないので、新しいタオルを用意しましたが、雑巾にこだわっていました。
時々、雑巾を踏んで転んだりしていました。
食卓の上に、母が裂きイカの袋を置きっぱなしにしていた時は、袋を破り、床一面に広げて楽しそうに遊んでいました。幸い、食べてはおらず、遊んでいただけのようで、私が怒られ、片付けさせられました。
鬼ごっこも好きでした。私がオニで、ルートはいつも決まっていました。1階の居間から2階の私の部屋、それからまた1階に降りて、食卓の下、そこから居間のカーテンまででした。
4歳の夏に、尿道砂粒症になりました。
尿道に管を入れ、無理に広げて排出させていました。5日ほどでしたが、とても熟睡できず、2時間おきくらいに様子を見て、水を飲ませていました。
それから13年、療法食でした。
それから、一緒に実家を出て、ふたり暮らしが始まりました。
年末に引っ越したんですが、結局、正月休みの間中、コタツに籠りっぱなしでした。
祖母が入院し、世話の為に帰りが遅くなるようになったので、ご機嫌取りにおやつを与えるようになりました。
祖母が死んでも、習慣はそのまま残りました。
そして、2日までは我慢するけど3日目も同じ種類のものだと嫌だと言い始め、多数の缶詰を1種類ずつ購入するという、非常に迷惑な客になりました。
風呂の蛇口から水を飲むようになったのも、実家を出てからでした。

この後、シャワーの存在に気づき、わざわざ浴槽の縁に上がらなくてもよいと学習した後は、風呂椅子に座り、シャワーを口元に持って来いと言うようになりました。
振り返れば、一体、何であんなに尽くしたのかと思ったりします。
ワガママでエラソーで、好き嫌いが激しくて、でもそれは私に対してだけの内弁慶なヘタレで、常に自己中だった、病気持ちの雑種猫。
……長所って、何かあったかな……
でも、私にとっては、世界で一番大切な命でした。
椰さえいれば、それで良かった。
16歳の冬。
腎臓が悪くなっていると告げられて、足元から崩れるような絶望を感じました。
腎臓は、治らない。まして16歳の雄猫なら。
私と椰は10年、ふたりきりで暮らしていた。私と同じだけ、椰を愛している人間はいない。誰とも悲しみを分かち合うことができない。
ふたりだけの幸せな小さな世界の崩壊に、私は耐えられるのだろうか。
それでも、呆然としているわけにはいきませんでした。
私しか、いないんだから。
病院へ毎日通った日々。少しずつ、椰は元気になっていき、点滴の間隔も空くようになり、週に1度で大丈夫になりました。
スタッドテイルになり、尻尾の先から1/3くらい、ごっそりと毛が抜けて、お腹の毛も抜けて。
でも、椰は椰だった。
外見は老け込んでも、病院から帰る度、わざわざ風呂場に行き、浴槽の縁に上がって「何であんなとこに連れて行くんや! 針刺されて痛い!」と大声で抗議していました。
だけど、17歳になってほどなく、たった1日で椰の体調は急変し、虹の橋を渡ってしまいました。
私と椰の、幸せな世界は粉々に砕かれました。
大人になってから、声を上げて泣いたのは初めてでした。
喪失感は、悲しみより憎しみになったと思います。
椰が死んだのに、生きている命のすべてが憎かった。
何で椰が死んだのに、生きているんだと、自分を含め、すべての生命に対して詰りたかった。
翌日、斎場へ連れて行った時、春らしい爽やかな青空が広がって、真っ赤なツツジが咲き乱れ、どうして椰が死んだのに、世界はこんなに美しいんだと、また憎しみが膨れ上がりました。
この日記を書きながら、涙がこぼれています。
膝にいるはーろが、心配そうに見ています。
1年前の憎しみは、もう沈静化しています。
誰がどうなろうが、世界は美しいままなんです。動き続けるんです。
ただ、どんな気持ちの良い天気の日でも、それを呪っている人もいるのだと、振り返ってしまいます。
椰と一緒にいられたら、それだけで良かった。
私の腎臓をあげられたら良かった。
仕方のない事なのだと、今は受け入れています。
すべての命が、例外なく持っている運命は、時が来れば死ぬということです。
死ぬことだけが、最初から平等に決まっていることなんです。
でも、本当は、化け猫になっても猫又になってもいいから、ずっとずっと一緒にいたかった。
会者定離。愛別離苦。
まだ、幸せな日々を振り返ることは辛いです。
ずっと一緒にいたかったよ、椰。





















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