病院へ向かった私達家族。
正直、そこまで酷いとは思っていませんでした。
事故の状況も父の状態も全く分からず、ただ「事故にあった」事だけしか知らない。
道路を横断しようとして轢かれたのか。
怪我の具合は?
骨折したりとかなのか。
入院になるのかなぁ。くらい。
そんな感じだったので、兄を起こす時も「お父さん事故にあったらしいんだけど、仕事急に休めんのなら終わった後で病院来て」とか言ってたし(苦笑)
「保険証とかいるんかな?探したけど分からん」とも言ったし←バカ
兄は寝起きでそんな事を聞かされ、「仕事休んで直ぐ行くけど、保険証は探すから先に行け」と返答。
後で聞いた所「保険証も多分親父持ってるやろうし、救急なら別に保険証後でいいんじゃ?」と探しながら思ったそうで(笑)
車の中でも私は、入院になるなら着替えとかも持って出直さんとあかんやろう。
洗濯物とか取りに通わなあかんし、行きは旦那に乗せてもらうとして帰りはバスかなぁ?
なんて呑気に考えて。
病院に着いたら、「痛い痛い」と言うだろう父と処置室のような所で対面か、もしくは手術室の前に案内されて待つ事になるんかな?って。
病院に着いて救急の受付で「事故で運ばれた…」と言いかけた所で看護師さんが「Kさんの御家族ですか!?」と。
「先生を呼んで来ますのでっ」と切羽つまった様子に、やっと事の重大さを認識し、そんな酷いのかと不安になりました。
すぐに先生が出てきて「会われますか?」と言われ、旦那と娘も呼ぼうとすると「あ…かなり酷い状態なので、娘さんはやめた方が…」と先生。
当時、小学生でしたからね。
なので、娘と旦那には待合室で待っていてもらい、私だけ先生と一緒に父のもとへ。
この時でもまだ私は、出血が酷いとか骨が見えてるとか、そういった酷さで、意識はあると思っていました。
が、会いに入った時の父は…
茫然とする私に先生が
「出来る限りの事はやります。てか、既に手を尽くしている状態ではあるんですが、出血が酷く輸血もしています。自発呼吸が出来ないので、人工呼吸器もつけています。脚も骨折が酷いんですが、正直そちらの治療は後回しというか、脚の治療の段階ではなくて」と言う先生。
意識が無いながらも、病院に着いた時には「痛い」とかうめいていたそうなので、「骨折の痛みもあるとは思います」と。
私は、「お父さん」と呼びかける事しか出来ず…
「意識は無くても聞こえてますから、呼んであげて下さい」と先生。
もう一度レントゲンを撮るので…と、私はその場から退出し、受付のそばで輸血や何やらに関する同意書にサインを。
暫く待合室で待つように言われましたが、その時には既に「危険な状態である」事を告げられていました。
必死に涙をこらえて娘達の元へ。
旦那にも「危ないらしい」と伝えるのがやっと。
椅子に腰掛け、落ち着かない私の元へ兄が到着して、兄の顔を見た途端泣いてしまいました。
兄にも「お父さん助からないかも」と伝えると、かなりのショックを受けたようで「マジか…」と答えるのが精一杯そうでした。
椅子に座り、うなだれる兄。
が、暫くした頃兄が
「S兄ちゃん(父の弟)達には連絡したの?」
と聞いてきて、してない。と答えると兄は連絡をしに席を立ちました。
戻ってきて暫くすると、伯母が到着。そのすぐ後先生に呼ばれ、一緒に話を聞く事に。
受付横の入口から直ぐ、左手側に簡易的な診察室があり、そこで先生が詳しく説明してくれました。
この後脳神経専門のドクターも来て下さいました。
脳挫傷
脳幹損傷
肋骨骨折
肺挫傷
頭蓋骨骨折
左大腿骨骨折
全身打撲
おでこや瞼に、ガラスで切ったらしい裂傷が少し
肋骨骨折があり、折れた肋骨が肺を傷付け、萎んだ風船のようになっている。
脳挫傷の為脳が腫れている。
腫れが治まれば…とは思うが、脳幹をやられてしまっているので、自発呼吸も出来ず、もってあと3、4日…
手は尽くしたが、これ以上出来る事が無いと。
数時間前に朝の挨拶を交わしたばかりなのに、いきなりの余命宣告。
脳幹さえ損傷してなければ、脳の腫れが治まるのを待って、肺や脚の手術も出来るんだけど…と、悔しそうに話す先生の姿が、今でも目に焼き付いています。
兄とふたり、医師である先生が手の施しようのない父の状態に、ハッキリと…意識が戻る事は無いと告げられた現実に、何も言う事が出来ずにいました。
待合室に戻ると、父の弟…私達の叔父も駆け付けてくれていました。
私達の表情を見て、あらかた察してくれた叔父。
そしてそこにやって来た、加害者…
加害者は私達を見つけると、その場で土下座して謝ってきました。
私は黙って睨みつけました。
兄は…
「そんな事しなくていいから立って下さい」
と。
「そんなふうにされても、あんたの気が済むだけで、父が元通りになる訳じゃない」
「迷惑だから帰って下さい」
冷たく言い放ちました。
その後看護師さんが、父を処置室から移動したと呼びに来たので、叔父達にも会ってもらおうと、旦那と娘も呼んで移動先へ。
数ヶ所ある処置室を抜けて奥へ進むと、ドアの無い個室のような場所。
その場所のベッドに父は寝かされていました。
治療と検査の為、父が着ていた衣服はハサミで切られ脱がされて、代わりの物を着せてもらっていて。
何だか器具がたくさん…
口の中も切れているようで、ほぼ血液に見える唾液でむせる父の、口元を拭いたりしました。(歯が折れていたそうです。)
先生が様子を見に来て下さって
「落ち着いてはいるので、今すぐどうこうと言う事は無いと思います。ただ、3日4日もつかどうかかと…」
と私達に告げ、心電図等をチェックし退出。
叔父達と少し話しをしたりもしたけど、急に来てもらったのもあるし、やがてお昼になる頃。
ずっと居てもらうのも…と、私と兄以外は一旦家に帰ってもらう事にしました。
旦那も夜勤明けで寝てなかったしね。
ところが、それから30分程経った頃、急に心拍が低下。
心電図を映すあの機械が、まるでドラマを見た時のように…
すぐに看護師さんと先生が処置をしてくれたけど、上下して。
程なくして、父の心臓は止まりました。
享年69歳
平成25年1月23日 午前11時15分 死去
70歳を迎えるまであと8ヶ月ちょっと。
血圧は少し高かったようだけど、他にこれといった持病もなく、釣りと麻雀とビールが大好きで、孫に甘いおじいちゃん。
一旦落ち着いた心拍数が低下しだしたのは、入院手続きの話をしていた時。
無意識下で聞こえたその内容に、私達に迷惑をかけないように急いで逝ってしまったのだろうか。
それとも…
それまで2年間程、ずっとケンカ中だった兄と私。
仲直りさせる為に、神様が父を連れて行ったのかな?
兄と私、ふたりとも、そういった自責の念に、暫く苦しみました。
言う事をきかない娘に怒る私を、孫可愛さに怒りつける父。
それでも、娘が段々と大きくなる中で、何故私が怒るのか、何をしたから叱っているのか、理解しようとしてくれるようになりました。
痴呆になった自分の母親を、施設には入れたけれども、毎日通って洗濯物を持って帰って来たり、必要な物を持って行ったり。
甲斐甲斐しく世話をしていたと思います。
子供が出来たけど旦那の収入が少なく、賃貸では暮らしていけないと思っていた時、身勝手に家を出て行ってた私に「帰ってこい」と言ってくれたのも父でした。
娘が小学生に上がる頃、旦那が派遣社員から正社員になり、それから数年経って少し生活が落ち着いた頃。
たくさん心配と迷惑をかけた父に、少しずつ親孝行をしていこうと思っていた矢先の事故。
結婚する気のない兄に代わって、これからの父の面倒は私がみるつもりだと、旦那とも話し合っていて、了解をえたところでした。
ボーナスがもう少し多くなったら、父も一緒に家族で温泉でも行きたいな。
昔みたいに一緒に、手取○ィッシュランドでも出掛けて、娘の前で鯉でも釣って?もらおうか?(笑)
そんな事を考えて、これから来る春を楽しみにしていました。
温泉もお出掛けも、もう少し早く行動していれば…
あの時あぁすれば良かった…
8年経った今でも、後悔はずっと付きまといます。
母の時も同じ後悔をしているのに、学ばない私。
子供に何か無い限り、親は先に旅立つものだけど、大往生だと言われる歳まで生きてくれるものだと思ってました。
色々考えて尽くしても、いざ見送った時、後悔はあると思います。
それでも、その後悔が少しでも減るように。
私のように「ありがとう」すら伝えられないまま、永遠に離れる事にならないように。
親御さんがご存命の皆様は、是非是非、「生きてるうちに親孝行」してあげて下さいね。


当時、父の状況を忘れないようにと、火の番をしながら書いた物がありました。
日記はこれを見る前に書いたけど、結構覚えてるもんだなぁ…と。
長文になりましたが、読んで頂いた皆様ありがとうございました。
ユーザーさんの日記を読んでいて、自分がずっと抱えていたものを吐き出したくなってしまい…
まぁそもそも、ネコジルシなのに猫の事をあまり書かない私ですが(笑)
また猫全く関係ない話なので、申し訳なく思っております。
明日からまた雪予報の福井県❗️
降っても積もらなきゃいいなと思ってましたが、平地でも多い所で40㎝の積雪との事なので、どうなる事やら😓
週末、無事生き抜けますようにっ‼️(笑)
それではまた👋
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