えりかの猫本レビュー

第8回 猫絵本の殿堂です「100万回生きたねこ」


有名な絵本です。「100万回生きたねこ」
えりかのコラム8回目。
100万回生きて、100万回死んだ猫。
100万回生きた猫は、私達に何を教えてくれるのでしょうか。
ちょこっとでも、この本の持つ意味について
考えていただけたら幸せです。







100万回生きた猫、ストーリーは簡単です。

100万回生きた猫の、猫生を描いているだけ。
今回コラムを書くにあたり、この本を何度も何度も
繰り返し読み返したのですが、もうお手上げ。
レビューの書き手にとって、この言葉を吐くというのは
自分からへっぽこコラム書きだと公言しているようなものですが
こればっかりは、うん、もう、しょーがない。





だってこの本、読む度に、その度に、解釈が増えていくんだもの。
そこをまとめるのがお前の仕事だろ、と言われちゃごもっともですが、
いくら考えても著者の佐野洋子さんの伝えたいであろうことが
一本化できないんです。

それはちっとも悪い意味じゃなく、
この物語を書けた才能に降参、お手上げ、敵わないと、
なんだか太刀打ちできないものを感じているわけです。





実際に読んでみてください。何回も読んでみてください。
最後のページにたどりつく度、何かを掴めそうになるのですが
掴めないこのもどかしさ、体験してもらえると思います。
そして、読む度に増える解釈。





猫は、飼い主が大嫌いだと言います。
何度生まれ変わっても大嫌いな飼い主と共に生き、死に、
ある時猫は野良猫になります。そこで初めて猫は「自分の猫」に
なり、自分が大好きになります。そして運命の白猫と出逢うのです。

白猫と出逢って、100万回生きた猫は愛を知ったのでしょうか。
たった一匹、100万回生きた猫に見向きもしなかった白猫。
100万回死んだことに対しても、三回宙返りを見せても
返事は「そう」だけの白猫。100万回生きた猫は、
100万回生きたことやいろんな経験をダシに気を引くのではなく
ここで初めて自分の気持ちを正直に伝えます。
「そばに いても いいかい」と。







自分のことが大好きで、自分しか見えなかった100万回生きた猫。
そして彼の心に入っていった白猫。
この本、もう考えても分かりません。
実際、ここまで書くのに丸二日かかりました。
んでここから最後まで書くのにあと何日か、んで仕上げにも数日
かかるんでしょうね。こんなに時間がかかったレビューは初めてです。

31ページのこの絵本。今までレビューした中では一番少ないページ数です。
しかし、その中に詰め込まれているものは無限で、
読む人によってそこから取り出すものも違います。
そして、読む度違うものが取り出せるんです。
それはもう、混乱する程色とりどりな、感情であったり思想であったり
思考であったりします。





私が初めてこの物語の内容を知ったのは、NHKの朗読番組でした。
声という「音」で耳に入ってくる言葉の、そのインパクトの強さに
ついチャンネルを回す指が止まってしまい、そのままずっと
見続けていた記憶があります。


「大嫌いでした」
「死にました」
「泣きました」
「埋めました」



およそ絵本には似つかわしくないマイナスの言葉達。
「100万回生きたねこ」には、この言葉達が何度も出てきます。
だからこそ引き込まれ、読み、考えさせられるんです。





考えるけれど、どこにもたどり着けません。
この本は空になることが無い本です。
読む度に迷い、逡巡し、考えますが
これといってぴったりくる答えが無い。
そして、次に読み終えた時には、違う感想が生まれている。
そんな枯れることの無い泉の様な本なんです。





ろいろ小難しいことを並べてきましたが、

要はまず一度、なーんも考えないで読んでみればいいんです。
この本に限って、何も残らなかった、というはずは無いですから。
単純に面白いと思ってみるだけでも、この本の真髄に触れられます。

ただ、この本の真髄は無限にあるんだなぁ。








100万回生きたねこ

これはひょっとすると大人のための絵本かもしれないが、真に大人のための絵本ならば、子供もまた楽しむことができよう。それが絵本というものの本質であるはずだ。そして『100万回生きたねこ』は、絵本の本質をとらえている。――週刊朝日書評より





次回は5月28日更新予定!次回も是非見てくださいね!
Auther:

★えりか


ご覧の通り、絵も文もゆる〜い感じで進むこのコラムですが、皆様のお目汚しにならないよう、しこしこと精進しながらがんばっていきますので、どうかよろしくお願いいたします。

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